バツ2の今が一番幸せ。ノストラダムス結婚~シングルマザーへの道のり

#わたしの転機

この記事を公開することは、私にとって大きな転機となります。

私は小1の息子を持つシングルマザーであると公言しています。
でも実はバツ2であるということは滅多に話しません。

1回目の離婚が少々ヘビーな内容なので聞かされた方が困るかなという遠慮と、2回も離婚しているというと人間性を疑われるかなという自己防衛心から、あえては言わないようにしてきました。

そして、私にはもう一人息子がいます。
その子が5才のときに、私は彼を手放しました。

もし私のことを「強く正しい母」だと勘違いしている人がいたら、本当の私を知ってください。

ノストラダムス結婚~自殺未遂

20才 最初の結婚

ノストラダムスの大予言。

「1999年7月に地球が滅亡する」

1979年生まれの私の人生は20才で終わると密かに思ってました。

でも、1999年の7月は何事もなく過ぎ…。

人生設計を全く考えていなかった私は焦り始めました。

この人なら私を幸せにしてくれる、そんな甘えた考えで、当時の彼氏と結婚しました。

23才 長男出産

結婚から約1年後に妊娠し、出産。

※このブログに登場している「息子」と区別するために、こちらの息子は「長男」とします。

長男は手がかからず、育てやすい子でした。
その上、義母が全面的にサポートしてくれたおかげで、子育てのストレスを感じることはほとんどありませんでした。

よちよち歩きの長男と近所をのんびり散歩しているとき、

これが ”幸せ” なんだな~

と、胸いっぱいに温かさが広がった感覚は今でも鮮明に覚えています。

そんな幸せを私に与えてくれた夫に心から感謝していました。

25才 未来への不安

長男にますます手がかからなくなってきて、ふと周りを見ると、

・職を持っている独身の同級生が輝いて見える。
・ママ友はみんなキャリアを保有している。

私は…?

長男が成長したあと、私は何をしたらいいんだろう。
私にはこれといったスキルがないし、職務経験もない。

今思うと”まだ25才”だけど、当時は”もう25才”という絶望感や焦燥感に駆られていました。

27才 自殺未遂

後から考えると、完全にうつ病でした。

眠れない日が続いていて「ちょっとでいいから、何も考えずに寝たい」と思っただけなんです。

大量の風邪薬をお酒で飲みました。

動けなくなっている私に夫が気づいてくれて、救急車で運ばれました。

医者や看護師から「自殺なんて考えないで…」と言われて、初めて自分が自殺未遂をしたと知りました。自分では「死にたい」なんて考えはなかったんです。

入院中はずっと脳の動きが停止している感覚でした。見えるものは認識しているし、人が話していることは分かるけど、何も反応ができなくて人形のような状態でした。

私を一人にしないように、母と妹が交代で病室に寝泊りしていました。

妹と2人きりのときだけは、なぜか声を出せたので、安心してもらいたくて「死にたいとは思ってないよ、ただ寝たかっただけなんだ」と話したら、妹が私に気づかれないように泣いていました。

3日間、点滴だけで過ごした後、初めておかゆを口にしたときに母の前で「おいしい」と声を出せました。
そのとき、

生きててくれたら、それだけでいいから

と言って、母は泣きました。

その言葉が、その後何度も死にたくなった私をこの世につなぎとめてくれました。

退院後はそのまま実家に連れていかれて、療養していました。

長男は義母が面倒を見てくれていました。

28才 離婚

実家で何もしないでいるのが心苦しくて、通信教育で簿記を勉強し、実家の近くの会社で事務員として働き始めました。

何もできないと思っていた自分が予想外に会社の役に立てていることに驚きました。

結婚生活を再開することは考えられず、そのまま離婚。

長男を引き取って育てていける自信はなく、義母に託しました。

このときの私はとても不安定で、生きているだけで精一杯でした。

依存結婚~シングルマザーデビュー

30才 再婚

メンヘラ状態の私を支えてくれる彼氏ができました。

彼の転勤についていくため、入籍。

自殺未遂をしたときにはなかった自殺願望がだんだん強くなっていき、この頃は「死にたい」とはっきり思うことが多かったです。

気を抜くとやってくる自己嫌悪と自殺願望の波を、新しい土地で新しい仕事をすることで紛らわせていました。

夫に依存しながら、「生きてるだけでいいから」という母の言葉を反芻して、徐々に心を修復していきました。

33才 職業訓練・息子出産

転勤先の愛知県で妊娠。

妊娠中に職業訓練のウェブデザイナー科を受講し、資格を取得。

初めて、自分のやりたいことが見えてきました。

実家から遠く離れた転勤先で息子を産み、ワンオペ育児により、子育ての本当の苦労を知りました。

その後、転勤で地元の神奈川県へ戻ったことをきっかけに、パソコン教室でインストラクターとして働き、人の役に立てる喜びを知り、仕事と育児に精を出しました。

35才 金沢へ移住

夫から石川県への転勤話を聞いたときは、ついて行くべきか悩みました。

パソコン教室でのやりがいある仕事を捨てて、実家からはるか遠い石川県へ…。

でも、このときは家族3人でいることを選びました。

この決断をして良かった。

金沢へ来なかったら、こんなに幸せな今はないんだから。

金沢でWebデザイナーとして働き始めて、自分の価値を見出しました。

大切な友人と出会い、尊敬できる人たちに出会い、多くのことを学びました。
自分を認められるようになり、自分を許せるようになりました。

37才 離婚

もう笑うしかない、2度目の離婚!

シングルマザーデビューです!

離婚の原因については一言では言えないのですが、お互いに依存しあっていた関係から脱したのかなと私は思っています。

母子家庭になると決まったとき、神奈川県の実家に戻ることも考えましたが、どうしても大好きな金沢を離れたくなくて、息子と2人で暮らすことを決意しました。

友人に支えてもらいながら不安の中での生活でしたが、自分の思うままに行動していたら、大切な人たちと出会えたり(主に変人)、仕事が選べるようになってきたり、様々なことが順調に回り始めました。

38才 現在

今が人生で一番幸せです。

シングルマザーになれた幸せ

別れた長男の成長については知らせてもらっています。

私が言えた義理ではないですが、恵まれた環境で立派に育っていて、安心しています。
万が一、長男が離れていった母を恨んでいるなら、私は何をされても構わないと思っていますが、そんな考えを持つような育て方はされていないと思います。

私の選択で2人の子どもを不幸にしてしまったと考えたときもありました。

でも、片親で育った子が不幸だと思ったり、まともに育たないと考えることは無知で失礼なことだと今は知っています。

今、私は金沢シングルマザーの会の活動によって、片親で育った人たちとたくさん出会っています。
みんな、人並以上の優しさと強さを持って社会で活躍されている方ばかりです。

私は最初の離婚ではシングルマザーになれませんでした。その器も知識も勇気もなかったんです。

シングルマザーになれた人は自分を誇らしく思ってほしいし、なれなかった人は自分を責めないでほしい。

どちらも、悩んで苦しんで、子どもと自分のために出した正しい決断なんだから。

2度の離婚から得た最強のメンタル

私はポジティブだと見られがちですが、本質はかなりのネガティブです。

そんな私が身に着けた特技は「立ち直りの早さ」

この先何が起きたとしても、3日もあれば立ち直れる自信があります。

無理にでも動いて、好きな人に会えば気分が変わり、新しい道が見えることを学んできたので、落ち込んだときほど私は活動的になります。

元気なときは、もちろんよく動きます。
つまり、常に落ち着かない!

まさに「死ぬこと以外かすり傷」なので、もう何があっても怖くない!

明日死んでも成仏できる

何か決断をするときに迷ったら「明日死んでも後悔しないか」で決めることにしています。

大切な相手に伝えたいことは、今すぐ伝えるようにしています。

やりたいことは今すぐに始めます。

明日死んだら息子のことだけが心残りだけど、毎日ちゃんと言葉にして愛情を伝えているし、息子を託す妹のことを信じています。

もし息子が妹の家(神奈川県)には行きたくない、金沢に残りたいと言ったときのために、誰かが手助けしてくれるような人脈を残せたらとも思っています。

私自身が人の役に立つことを積み重ねていけば、きっと息子を助けてくれる人が現れると信じています。

まぁ、そう簡単には死なないけどね!!

読んでくれてありがとう!

長文を最後まで読んでくれてありがとうございました。

隠していることが苦しくて、でも話すのは怖くて。

そうやって悶々としていることが嫌になったので、この機会に書いてみました。

ただ、これは私の視点の話です。
それぞれの夫側から見た現実はまた別物になるかもしれません。

私は誰が良いとも悪いとも思っていません。

あのとき、こうすれば…という考えも今はありません。

全ての経験があって今の私になっていて、今の私は幸せ。

それが事実です。

私に関することなら何でも聞いてほしいし、何でも話します。

そして、私の経験が役に立つなら、ぜひ活用してもらえることを望んでいます。